向栄会職方のご紹介

数寄屋建築 宇佐見忠一

向栄会会長。数寄屋建築を専門とする藤森工務店会長。 大学卒業後、藤森工務店に入社。藤森工務店は、昭和の名工・藤森明豊斎の遺志を継ぐ工務店。藤森工務店の手掛けたものは、宗家道場の成趣庵をはじめ、昭和記念公園の日本庭園、三渓園の春草廬(重要文化財)の修復など多数。

宇佐美忠一
栗及び炉蓋セット

表具 表具久生

茶掛を多く手掛ける表具師。慶應義塾大学工学部中退後、父の、加麗堂三代目・表具彌三次氏に師事。表具家は、加賀藩前田家一三代前田斉泰公から名字帯刀を許され、以来掛物の表装、古書画、古屏風の修理の技術を受け継いできた。

指物 井川信斎

父の信斉は富山県生まれ。上京し茶の湯指物三代目川上文斉門下に入門、指物を学ぶ。昭和二六年、川上文斉氏の跡を継いで、小堀宗明宗匠より信斉の名前を拝命し、指物師として四代目となった。現在の二代目信斉氏は五代目。家元好みの棚などの作品のほか、美術品の箱作り、古物の箱の修復なども手掛ける。

井川信斎
桐 輪花棚

釜 根来琢三

根来家はもと紀州藩の鉄砲隊。祖父の実三氏がその義父の四代釜彦・佐々木宗彦に鋳造を学び、大阪へ修行に出て釜師となった。横浜市の寺家町で工房を開き、琢三氏で三代目。実三氏が、師事していた東京美術学校教授の香取秀真氏から小堀宗明宗匠を紹介され、宗家へのお出入りが始まった。

根来琢三
松竹文平釜

韓国駕洛窯・楽山窯 清水日呂志/清水久嗣

 三重県と滋賀県の県境に連なる鈴鹿山脈の裾野に楽山窯(らくざんがま)があります。現在、3代目清水日呂志氏は息子の四代目清水久嗣氏と一緒に駕洛窯(からくよう)・楽山窯を営んでいます。祖父である初代清水楽山は萬古焼に初めて高麗茶碗の作風を加え高い評価を得ました。その技術を継承し、高麗茶碗の生産地である韓国で研究、築窯し、高麗茶碗を現代の作品としてよみがえらせた第一人者の作家です。韓国で作ったものを「駕洛窯造」、日本で作ったものを「楽山窯造」としています。
 清水日呂志という名前は、楽山窯二代目だった叔父の名です。叔父は戦争で早くに他界され、「自分の名前を継いで欲しいと思っていたのではないか…」と思いから、その名を継ぎました。遠州流茶道との関わりは11代宗明宗匠の頃から始まり、宗明宗匠は夏になるとよく切畑の窯場に遊びにみえて、1ヵ月ぐらい滞在されていたこともありました。清水日呂志氏が、初代清水楽山について修業を始めたのは昭和34年のことでした。昭和36年からは高取、丹波、萩などへ修業に出て、昭和46年に韓国へ茶陶器の指導に行ったのがきっかけで、後に窯を造ることになりました。韓国に指導に行きながら、韓国の窯の造り方を研究し、韓国の窯の要素を取り入れ三重に楽山窯を築きました。
 昭和49年釜山近郊の金海郡に金海駕洛窯を築きました。昭和61年には韓国河東郡沙器村に移って沙器駕洛窯を造りました。平成4年には、全北茂朱郡に茂朱駕洛窯として移しました。韓国でも日本と同じように、窯の煙などの関係で、周囲が宅地化されると、奥へ奥へと窯を移してきました。それでも韓国の窯にこだわるのは、「土が80パーセント」だと考えているからです。四日市周辺の赤土で造る三島や刷毛目、楽山窯周辺の白い土で造る萩や唐津、そして駕洛窯で造る御本などの作品、清水氏は「昔のもので時代がついているものと同じに造ればいいか、というとそうでもない。まあ難しいですよ。火の中を見ることはできないからね…焼き物は理屈では計れない。経験は必要だが、偶然の要素も強い…」という不思議な世界だとのことです。  1トンもの土を掘ってきても、そのうち、よい土は50キログラムしかとれないとのことです。掘ってきた土は、水槽で一ヵ月沈殿させて漉(こ)します。粘りのない土だと縮緬シワが出るとのことです。それから練り、今は機械化している所も多い中、清水氏のところでは手で練っています。「力仕事だし、大変なのですが。機械だと土が均等になりすぎてしまって、焼いたときに面白くないんです」とのことです。
 土にも、窯にもこだわる清水氏は、もちろん使う薪にもこだわりがあります。「使うのは松、それもアカマツしか使わない」と決めているとのことです。楽山窯の敷地には、沢山の松があります。将来、薪に使うために、松ぼっくりから発芽したものも、大切に大切に育てています。「松は、炎がのびるんです。15メートルにもなるんですよ。ガスで焼くのはいわば蒸し焼き、薪で焼くのは、そうですね、炭火焼きみたいなものですかね。」ガスと薪の違いは、化学的にいうと、酸化と還元の違いとのことです。
 高麗茶について清水氏は、「高麗茶碗の魅力は、失敗作の中に良さを見つけたことだと思いますね。日本で珍重された高麗茶碗は、アンバランスだけれども、バランスがよい、ということでしょう。たくさん焼いた中で、歪んだり、焼け方が偏ったものは、朝鮮半島の陶工にとっては失敗作だったはずです。それを窯変とか片身替わりとか言って珍重したのです。たとえば、雨漏りというお茶碗は、本来、食器として作られているのですから、水分がしみこんでしまうというのは、失敗ですね。でもそれを雨漏りと名付けた。それによって、いかにも風情があるように思えてくるでしょう。荒波をくぐった人間ほど味がある。茶碗も同じですね」とのことです。朝鮮半島で大量に焼かれた食器、雑器の中から、日本に請来した茶碗を高麗茶碗と呼んでいますが、「高麗茶碗」は、それ自体がすでにお茶人の感覚によって選別されたものだということです。また清水氏は「一口に高麗茶碗と言っても、三島、刷毛目、井戸、粉引、熊川、堅手、伊羅保、斗々屋など、いろいろ種類があって、覚えようとしても、そう簡単に覚えきれるものではないです。でも覚えられないからといって悲観しなくてもいいんですよ。学者さんになるわけではないでしょう?ほかにもいろいろな焼き物がありますし、どれか一つでも、自分が好きなものを見つけて、それを大事にすれば、十分に楽しいと思いますね。茶碗も人間と同じ。好きになったら抱きしめて、口づけをするんです、と説明すると、よく分かってもらえる」とのことでした。
 平成4年より息子の清水久嗣氏が師事し、4代目として技術を受け継ぎ、全国各地で個展を開催しています。また日呂志氏と同様に、遠州流茶道向栄会職方として遠州茶道宗家13世小堀宗実家元の指導を仰ぎ、素晴らしい作品を制作しています。

<<清水日呂志氏作家略歴>>
昭和34年 祖父初代楽山につき修行
昭和36年 高取、丹波、萩にて修行
昭和45年 三重郡菰野町切畑登窯築く
昭和46年 韓国利川にて茶陶器指導
昭和47年 韓国大邱にて茶陶器指導
昭和48年 鶏竜山、聞慶にて研究
昭和49年 釜山近郊金海郡に金海駕洛窯造る
昭和56年 三重郡菰野町尾高高原に尾高焼楽山窯築く
昭和61年 韓国河東郡沙器村に沙器駕洛窯移す
平成 4年 韓国全北茂朱郡に茂朱駕洛窯移す

<<清水久嗣氏作家略歴>>
昭和46年 三重県四日市市生
平成4年 父、清水日呂志につき修行
平成6年 韓国内、聞慶、利川等にて研修
平成11年 名古屋三越にて個展開催(以降4回)
平成18年 韓国武安郡に駕洛武安窯築窯
平成19年 京王百貨店新宿店にて個展開催(以降3回)
平成24年 明治村野点席担当、作品出品  
※現在、全国各地にて個展、グループ展、講演を開催

韓国駕洛窯・楽山窯 清水日呂志
井戸茶碗 清水日呂志
韓国駕洛窯・楽山窯 清水久嗣
蕎麦茶碗 清水久嗣

漆芸 中谷光哉

北海道小樽市生まれ。石川県の高校卒業後、京都で一閑塗の修行をする。その後石川県に戻り、家業の山中塗を継ぎ、茶道具や会席道具を製作している。息子の中谷光伸氏も中谷塗職人として活躍。

中谷光哉
松竹梅雪吹茶器

遠州志戸呂利陶窯 青嶋利陶

 静岡県(遠江国)榛原郡五和村字志戸呂の地に始まった焼物が「志戸呂焼」です。古くは行基焼の名があるが、天正年間瀬戸の陶工加藤庄右衛門景忠がこの地に来て五郎左衛門と改名して従事し、当時浜松城主であった徳川家康公がその技術を賞で三十石の扶持(ふち)を与えています。その後弟子が同姓を名乗り後を継ぐが、寛永年間(1624-44)、遠州公が東海道の上り下りの途中に花器製作のご指導をされ、すぐれた作品を焼出しました。志戸呂の窯は、享保年間以後は、判が押されるようになり、印文は「志戸呂」(数種)と「質侶」とあり、印形は多く長方枠に入るが、小判枠もあり、種類は十数種に及んでいます。土は淡赤色であり、釉色は濁黄又は黒褐色であり堅い焼物です。遠州公の指導に依る耳付茶入、平肩衝茶入、或は切形碗等はいずれも瀟洒(しょうしゃ)であり如何にもキッパリとしています。「遠州蔵帳」の水指の項に「質戸呂水さし」なる品名も記載されており、遠州公の指導窯として「遠州七窯」の一つに称されています。
 志戸呂焼の代表的な作品として、「初桜」という茶入があります。遠州好を物語る典型的な作品として、その形姿と釉色は如実にこれを示しています。その形姿は、遠州公が自ら愛蔵された「春山蛙声(しゅんざんあせい)」(真中古・柳藤四郎)に近似しており、おそらくこれを基本に遠州公が切形されたものと思われます。この作風と通ずるものとして瀬戸後窯の万右衛門作「田面」があり、「振鼓(ふりつづみ)」があります。いわゆる落穂手(おちぼで)と呼ばれる一連の作風ですが、その甑を取外すとこの初桜の形が出来上がります。そして腰から畳付への優美な曲線はさながら仁清の轆轤を思わせるものがあり、キリリと衝いた肩の稜線と対比してこの茶入を魅力的なものとしています。もう一つの見所は釉薬にあります。志戸呂の上釉は瀬戸系ながら前途の如く渇釉の中に濁黄色を交えていることで、これが鶉斑状にかかり、志戸呂独特の和らいだ雰囲気を作り出しています。釉はやや腰高にかけられていて、こまやかな精選された志戸呂の土質を見せてくれています。銘は松平備前守の筆蹟で内箱甲に「初桜」、同蓋裏に「宿からや 春の心もいそくらむ ほかにまたゐぬ 初さくらかな」と字形されています。東海道の春を称えるにふさわしい逸品として鑑賞することが出来ます。現在この茶入は遠州茶道宗家に収蔵されています。
 徳川幕府の庇護(ひご)のもとに隆盛した窯でしたが、明治維新以後は下火になりました。遠州茶道宗家12世小堀宗慶宗匠の舎弟である陶芸家の本多利陶氏は、小堀宗慶宗匠や林屋晴三先生のすすめで、平成3年に志戸呂焼を見事に復興させました。その後、青嶋久史氏が初代の教えを守り遠州茶道宗家13世小堀宗実家元の指導の基、志戸呂焼の伝統を支えてきました。平成18年、この研鑽が認められ二代利陶を襲名することになりました。
 遠州好みの作品を造る上で青嶋利陶氏は、「先代の本多利陶先生からは、古い茶道具特に安土桃山期から江戸初期頃の陶器を良く観察し、機会があれば手にとって肌で感じることが大切だと言われてきました。また、お茶のお稽古をして道具の使い勝手や用途を知らなければいい茶道具は出来ないと教えられてきました。幸い向栄会の会員として御家元に直接製作のご指導をいただき、お茶のお稽古も続ける事が出来ているので、職人として製作を行う環境に恵まれれいます。」と、小堀遠州が作り上げた茶道の精神「綺麗さび」を追及し、素晴らしい作品を生み続けています。 現在、青嶋利陶氏は遠州流職方向栄会員として全国各地で個展を開催し作陶を行っています。

<<青嶋利陶氏 作家略歴>>
平成7年 瀬戸窯業技術専門校卒
志戸呂焼 本多利陶氏に師事
遠州志戸呂利陶窯陶工として製作を行う

平成18年 京王百貨店新宿店にて二代利陶襲名記念展開催
その後各地にて個展開催
遠州流家元職方「向栄会」会員

青嶋利陶
志戸呂 菱型水指

高取焼 高取八山

十三代高取八山氏は、高取焼宗家に生まれ、十一代静山氏のもとで幼少より陶業を学んだ。京都市立芸術大学陶芸科を卒業後は大徳寺派廣徳禅寺で修業。帰窯後、高取焼古窯跡の発掘陶片を研究し、作陶につとめる。高取焼は士分に取り上げられた際、黒田長政公により鷹取山にちなんで高取の名を拝領した。その後小堀遠州公の指導を受け、多くの中興名物をつくり出した。

高取八山
三嶋茶碗

菓子処 源田恒房

昭和三九年、先代の源田萬年が新宿百人町に「源太」を開業し、現在は源田恒房氏が和菓子づくりの技術を継承し店の看板を守っている。店名は三代目市川左団次の茶碗 銘「源太」と本名の萬年から、紅心宗慶宗匠が命名。看板の字形は宗慶宗匠のものだ。

呉服 江澤秀治

台東区寿の呉服店「ちくせんや」二代目。初代の跡を継いで四〇年余り、店舗はなく、昔ながらの背負い呉服という販売形式で、客宅を訪問し好みの着物を誂える。